こまちなか観光MAP

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No1  加賀口御門址
加賀口御門址

福井市松本2-10-17
 
 慶長6年(1601)徳川家康の次男結城秀康は越前に封じられ、新たに北庄(後の福井)城を築いた。福井城下の出入を拒する重要な口は七口あったが、中でも加賀口は最も重要な口であった。北陸街道は西蓮寺西の「松本四ツ辻」を左折北上し、この「加賀口御門」を通り抜け、それより加賀を指して城下外へと通じていた。
 加賀口御門は、百万石の大大名である加賀藩の前田氏に備えたもので一播二越と言われる要衝の地、福井の位置づけを象徴するものであった。御門の外には、三方を囲む形の壕をめぐらし、その内側に馬だしが設けられていた。この門を中心に東西に長く(西別院東方から現進明中学校正門付近まで)、濠と土居が築かれていた。濠の内側は「松本町」で「木戸の内」とも云われ、一帯には御先手組などの組町がつくられていて、備えは尋常ではなかった。この碑の前を流れる芝原用水分流は往時の濠の名残である。
 御門の外に位置する旧町名の荒町は、慶長20年(1615)に御門内の西側に足軽屋敷を作ることになって、その地にいた松本油屋敷96軒を門外に移して出来た町である。新しく出来たことから新町と云われ、さらに荒町となった。正徳3年(1713)の御城下惣町開散帳によると、枡形の堀場より荒町一里塚まで百拾七間を油町(上荒町)と呼び、その北、百拾七間半が下新町(下荒町)であった。
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