江戸時代初期の画家、岩佐又兵衛勝以は1578年、摂津国伊丹城主だった荒木村重の末子として生まれました。しかし、その翌年、荒木村重が信長と争っていた本願寺に味方したことから、自分の城を攻められてしまい、村重一族やけらい、侍女、子供に至るまでことごとく捕らえられ、京の六条河原でその首をはねたといいます。当時2歳だった又兵衛は、落城間際に乳母によって救い出され、京の本願寺にかくまわれました。又兵衛は武士としての生活を断ち切られ、また家族も一人残らず殺され、孤高の中で幼年期から青年・壮年期を過ごしました。
京の雅な環境の中で当時代表する歌人や文人、茶人と交友を深めただけでなく、狩野派や土佐派、曽我派、長谷川派等の桃山時代の画壇の巨匠たちと交友を結びながら、彼の非凡で鋭い感性を高め、絵画への才能を伸ばしていきました。又兵衛の画家としての力は北庄でも十分聞こえており、第2代福井藩主松平忠直にその技量・独創的な構想などが気に入られたこともあり、越前の地に自分の工房を構えることになりました。その後、江戸へ移り、新たな創作活動し、新しい風俗の画風をもたらした又兵衛は、1650年73歳で没しました。
この興宗寺(松本3丁目)は幼少のころから又兵衛の成長に深く関わっていた本願寺住職10世心願いたお寺で、又兵衛はここに葬られました。
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