橋本左内は福井藩医・橋本長綱の長男として生まれた。幼少から学を好み、10歳で『三国志』を通読したという。15歳の時に『啓発録』を著し、学問を志す心構えを強い言葉で綴っている。
福井随一の儒学者・吉田東篁に教えを受けたほか、大坂の緒方洪庵が開く適塾で蘭学も学んだ。父の死去により19歳で福井藩医を継ぐが、折しも嘉永6年(1853)にペリーが来航。情勢の急変に左内は動かされたのだろう、藩の許可を得て、勉学のため江戸へ発った。藩校明道館の改革を命じられた左内は、洋書習学所を新設するなど、人材養成の大役を果たした。しかし、将軍後嗣問題で政争に敗れ、安政の大獄で刑死(享年26歳)した。
ここは橋本左内の生家跡で「啓発録」の碑とともに、左内の産湯に使われたという井戸も残っている。 |
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