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No13  横井小楠・三岡八郎像
横井小楠・三岡八郎像

福井市大手2-10
 
 松平春嶽の命を受け、財政難の福井藩を再建した実務家が三岡八郎こと由利公正は、明治維新の後は中央にも進出し、国家財政にもその手腕を発揮する。
 藩士の子として生まれたが、藩同様家計もあまり楽ではなかったという公正だが、倹約に長けた母を助けながら武芸に励んだ少年時代も、経済感覚を育んだのだろう。
 嘉永4年(1851)には熊本藩士である横井小楠が来福。"経世済民"に共鳴した公正は、小楠に師事。産業の振興をはかって富を蓄える"殖産興業"を推進し、藩財政再建に取り組んだ。下関の物産取引の実状を調べ、長崎ではオランダ商館と生糸の販売特約を締結。福井では藩札を発行し、生産者に融資した。これら公正の富国策は成功し、莫大な借金を抱える藩財政を黒字に導いた。竜馬はこの公正の活躍に目を付け、福井に公正を訪ね、新政府の参与に公正を推挙し、「御用金穀取扱方」、今で言う大蔵大臣に初めて公正が就任した。倒幕を果 たした新政府財政も、以前の福井藩同様苦しいもので公正は政府初の紙幣を発行し、財政再建をはかる。
 明治政府の施政方針"五箇条の御誓文"の草案を起草したこともよく知られている。「広く会議を興し万機公論に決すべし」の精神は、活発な議論を繰り返した福井藩での体験が生きている。明治4年(1871)、初代東京府知事に就任。同7年には『民選議院設立建白書』に署名し国会開設を主導した。薩長土肥が大半を占める新政府にあって、要職を務めた福井出身の公正。その才能の非凡さは、藩閥をも超えるものであった。
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