福井藩の初代藩主・結城秀康は天正2年(1574)徳川家康の次男として生まれた。
幼名は於義丸。天正7年、兄・徳川信康が父・家康の命で自害したことから、於義丸が嫡男となった。
天正12年(1584)、小牧長久手の戦いの後、戦後処理の一環として豊臣秀吉の養子に送られ、養父と実父の1字ずつを取り「秀康」と名乗った。天正18年(1590)秀康16歳の時、小田原攻略が成功した秀吉の命で下総国結城城主・結城晴朝の元へ養子に出される。結城10万石を領有する「結城秀康」の誕生である。
時を同じくして秀吉の政策により実父・家康が関東圏を治めていたため、彼は結城姓を名乗りながら徳川の勢力圏に入ることになった。その後彼は葛西一揆鎮圧のために奥州に出陣、文禄元年(1592)の朝鮮出兵には肥前名護屋に布陣したりと、武将としての頭角を現していく。
秀吉の死後、慶長5年(1600)に始まった関ヶ原の戦いでは家康の命を受け、下野国小山に陣を構え会津・上杉景勝が江戸に乱入するのを牽制する役割を果
している。この功により彼は加賀藩への牽制の意味もあって福井68万石の初代藩主に封じられた。関ヶ原合戦後の恩賞としては最大のものである。慶長10年には5歳年下の弟・秀忠に将軍職が譲られ、彼に臣従することになるが、これは政略として他家を転々としたことが災いしたものである。
慶長6年5月、越前に入国した秀康は北ノ庄城の改修に着手。広大な城郭と五層の天守閣を建設、九頭竜川から芝原上水を掘削して城下の飲料水を確保し、城下町の形成に努めた。この城と城下町建設には約6年の歳月が費やされたという。
慶長12年(1607)4月、病床に就いていた秀康は34歳の若さで不運な一生を閉じた。遺骸は結城家の菩提寺である曹洞宗・孝顕寺に埋葬されたが、家康の「徳川は浄土宗である」との命により、新たに浄土宗・浄光院(運正寺)が建てられ、改葬された。 |
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