福井城は、徳川家康の次男、結城秀康によって慶長6年(1601)から約6年の年月をかけ築城された平城である。環郭式の構成を取る大規模なのであって、一説には家康みずからの縄張りとも伝えられている。
足羽川、荒川を天然の外堀とし、南を正面とする本丸を中心に山里丸、二の丸、三の丸が配され、北陸の要として威容を誇った。
寛文9年(1669)の大火で天守を始め大半の建物を消失した。直ちに復興が図られたが、以後天守は再建されていない。現在は本丸の石垣の一部を残すにすぎない。
しかし、旧藩主松平家に伝わった資料等によってその概要を次の通り知ることができる。天守は総高約28m,一層目の広さは、梁行10間(約19.7
m)桁行12間(約23.6m)の規模を持ち、二重のやぐらの上に二重の望楼を乗せた形式を持つ外見四重、内部5階の建物であった。
また、本丸内には多くの殿舎から成る本丸御殿が存在した。この御殿の構成は、時代により若干の変遷がみられる。しかし、南面中央大手口に面して玄関を置き、この西に大広間・御書院の表向施設を、東に台所等を、西後方に藩主の御座所、そして東後方に奥居間・長局・寝所等の奥向施設を配する構成はほぼ一貫している。こには西の山里丸や藩主の御座所が置かれた時も多かった二の丸に通じる山里口門が存在した。天守台下にあって、南の石垣との間に渡りやぐらのような形であったので、埋門とも呼ばれた。方向の異なる二つの門によって、升形を形成する定法通りの造りの跡が、石垣に明瞭に残っている。 |
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