こまちなか観光MAP

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No22  松平春獄像
松平春獄像

福井市大手3-11
 
 徳川御三卿の田安家から福井松平家の養子となり、天保14年(一八四三)16歳で初入国した。飢饉や疲弊した藩政により、当時の福井藩財政は火の車。春嶽は中根雪江や鈴木主税ら人材登用を手始めに、藩政改革を推進した。藩医の橋本左内を重用、熊本から横井小楠を招き、三岡八郎に殖産興業を実践させるなど、そうそうたる面 々が春嶽のブレーンとして藩を再建。さらに明君の眼力に叶った人材たちは、国家をも動かす原動力になってゆく。
 春嶽は、早くから開国論を主張。薩摩や土佐ら雄藩の大名とともに、幕政改革もはかる。当時幕府は将軍継嗣問題で勢力が二分、春嶽は英明の聞こえ高い一橋慶喜を推す主導的立場に。紀州藩主徳川慶福を推す側と対立した。
 やがて紀州派の筆頭・井伊直弼が大老となり、継嗣問題は春嶽らが敗北する。井伊は春嶽ら一橋派を一掃し、攘夷派を弾圧した。これがいわゆる「安政の大獄」である。桜田門外の変で井伊が暗殺された後、春嶽は政事総裁職として幕政に復帰する。倒幕佐幕派の対立、大政奉還、王政復古と大変革に見舞われる中、春嶽は徳川家の保全と政局の収拾に努めた。維新後も議定として政府要職に就くが、明治3年(1870)大学別 当(文相に相当)を最後に中央から退き、晩年は文筆活動に専念した。
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