ここは福井藩の家老を勤めていた狛家の屋敷があった場所である。
現在のフェニックス通りに面して、この辺りは禄高1万石以上の武家屋敷が並んでおり「大名広路」と呼ばれていた。現在も交差点やバス停に「大名町」の名称が使われるのは、この名残である。
狛家は当初は1万石を有する家であったが、江戸時代中期に北狛、南狛の2家に分かれた。右に掲げた絵は南狛屋敷付近の旧景であり、この敷地面積は3,740坪の広大なものであった。北は北狛家、南は酒井家と本多家、東は大名広路に面して門が設けられた。東側の間口は約70間であり、広大な長屋門が続いていた。このような広大な屋敷が並んでいた江戸時代の景観は「大名広路」の名にふさわしく、全国的にみても類例の少ないものであった。なお、「狛」の名は現在も現在も自治会の名称に使われている。 |
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