No41 「旧塩町」標識
福井市照手1-2
江戸時代の町名で、古くから塩問屋や塩商などの商人が集まったことに由来する。
このような職人町、商人町は城下町特有であるが明治7年に照手中町に編成されて消滅した。塩荷は材木などとともに足羽川の船着場(木町川戸)から荷揚げされたと思われる。
嘉永7年(1854)6月13日朝、塩町の鍛冶屋から出火し、福井城下の○の2を焼く大火となった。これにより家屋2,264軒、足軽も含めた藩士の屋敷421軒、寺49軒を焼失し「塩町焼き」として語り継がれた。