安土桃山時代の武将 丹羽長秀が丹羽家の先祖代々を菩提するために創建した寺である。
丹羽長秀は幼少の頃から信長に仕える。その後は信長に従って長篠の戦いや越前一向一揆征伐など、各地を転戦して功を挙げる。しかし長秀は軍事だけではなく、政治面においても優れた手腕を発揮し、安土城の普請奉行などを務めるという多大な功を挙げている。それらの功績によって信長から近江佐和山城や若狭一国を与えられた。1591年の有名な京都御馬揃えにおいても、一番に入場するという厚遇を与えられている。1582年信長から三男・織田信孝の副将として四国征伐を命じられるが、直前に本能寺の変が起きて信長が死んでしまう。その後は羽柴秀吉と協力して、明智光秀を討った。そして清洲会議でも秀吉を支持し、後に越前と加賀などに百二十三万石の大領を得る大大名となった。しかし1585年、病のために死去した。 |
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