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一乗谷朝倉氏遺跡

いちじょうだにあさくらしいせき


朝倉氏の興隆

朝倉氏の祖先は、現在の兵庫県・養父郡一体を本拠地としてい た豪族。元々は日下部と呼ばれていましたが、平安時代の末頃から朝倉姓を名乗 るようになったといわれています。鎌倉時代の末頃からは南北朝の争乱に参加。 室町時代には足利一族の有力武将・足利(斯波)高経のもとで功績をたて、越前黒丸城(現 在の福井市西部の九頭竜川河口左岸)に居を移し、朝倉広景以後6代135年にわ たって坂井郡一円を支配しました。
七代目の朝倉孝景は、1467年の応仁の乱で大活躍。守護斯波氏や守護代甲斐氏を追放、越前を押領し、守護(代?)職に就くと同時により軍事環境に適した一乗谷に本拠を移しました。
文明3年(1471年)以後孝景→氏景→貞景→孝景→義景と五代103年に わたって越前を支配。京の文化を積極的にとり入れ北陸の小京都とも呼ぶべき城 下町を築きながら、みやびやかな文化の華を咲かせました。
しかし、その繁栄も五代・義景が「刀祢(とね)の戦い」で信長に破れ、陣を建 て直すため大野に逃れましたが、一族・朝倉景鏡の裏切りにあい自害。一乗谷は 天正元年(1573年)8月17日信長勢によって火を放たれ、朝倉氏の城下町 は三日三晩燃えつづけた後、地中深く眠りにつきその栄華の永い歴史を閉じました。
そしてこの時から信長から越前を任された柴田勝家は国府を北ノ庄(現在の福井 市中心部)に構え、一乗谷は歴史から忘れ去られていったのです。

幻の都「一乗谷」

昭和42年に奈良国立文化財研究所の指導で始めて本格的な発掘調査が行われれ 以来当主の館をはじめ、武家屋敷・寺院・町屋・職人屋敷さらにそれぞれを結ぶ 道路にいたるまで、戦国時代の町並みがほぼ完全な姿で発掘され約400年ぶり に深い眠りから目を覚ましたのです。同時に、当時の生活文化を物語る茶器・文 具類・火縄銃・文字の書かれた札・職人道具など150万点にも及ぶ貴重な歴史 遺産も発見。その極めて貴重な歴史的価値から昭和46年山城跡を含む延べ27 8ヘクタールが「特別史跡」に。平成3年には遺跡内の南陽寺・湯殿・諏訪・朝 倉義景館跡の4つの庭園が「特別名勝」に指定されました。

唐門

からもん
朝倉義景館跡の正面、濠に面して建つ唐門は五代・朝倉義景の菩提を弔うために 建てられた松雲院の寺門。幅2.3メートルの向唐門形式で、質素な中にも堂々 とした気品を称えています。現在のものは何らかの理由で江戸時代中頃に建て替 えられたものですが、門内の上部には朝倉家の「三ツ木瓜」の紋と豊臣家の 「五三の桐」が刻まれています。

諏訪館跡庭園

すわやかたあと・ていえん
諏訪館は、朝倉五代当主・義景が4人目の側室「小少将」のために造ったと伝え られる館。その庭園は遺跡に4つある庭園の中でも最も規模の大きな庭園となっ ています。
義景は最初、管領家の細川氏の娘と結婚しますが、まもなく死別。近衛家の女性 と再婚しますが離婚し、3人目の女性=鞍谷刑部大輔の娘を側室に 迎え、愛児・阿君丸をもうけますが早世し、また妻にも先立たれました。 そし て4人目の側室として家臣・斉藤兵部少輔の娘「小少将」を迎え、一子・愛王丸 をもうけ朝倉家滅亡の時まで生涯をともにしました。庭園の中央には高さ5メー トルにもおよぶ立石が、周囲には大小100を数える自然石が配され、その池泉 回遊式庭園は、日本でも第一級の豪華さを誇るといわれています。また県立一乗 谷朝倉氏遺跡資料館には当時の諏訪館の屋根板の重しや、魔除けとして棟先に据 えられていたと思われる「鬼瓦」が展示保存されています。

武家屋敷立体復元地

これまでの発掘調査によって一乗谷には当時まるで京都のような整然とし た町並みがあったことが確認されていますが、その中心部にある武家屋敷跡群。 その中の一つを遺構と当時の歴史文献を参考に復元した武家屋敷立体復元地。離 れ座敷らしい遺構と全体の規模の大きさから見て上級武士の屋敷ではなかったか と考えられています。復元された建物は30坪の主殿を中心に、蔵、納屋、厠、 井戸などすべて当時のままに再現され、また当時の町並みも200メートルにわ たって再現されています。

戦国大名朝倉氏五代当主の歩み

初代
孝景
朝倉氏七代目=初代一乗谷当主。応仁の乱ではじめ西軍に属したものの、後、東軍(幕府側)に寝返り、越前守護斯波氏の守護代・甲斐氏と戦い功績をあげ越前を手中に(押領)。生涯を甲斐氏とその残党との越前支配にかけた戦いに明け暮れ、一乗谷に本拠を 移し天下に名を馳せるのと同時に、朝倉一族繁栄の基礎を築きました。
二代
氏景
父・孝景の意思を継いで、しぶとく反撃してくる甲斐氏と戦いながら、越前支配 を確実なものにしていきました。また、足利義澄を室町幕府将軍に擁立した細川 政元のクーデターでは2000人の兵を上洛させ、京の都に「越前に朝倉あり」 と名を轟かせました。
三代
貞景
父・氏景の没に伴い、わずか13歳で朝倉家を継いだ貞景。彼もまた戦いに明け 暮れる生涯で、当時破竹の勢いだった加賀一向一揆を平定し、越前支配をより確 固たるものにしていきました。名実ともに越前守護となる。
四代
孝景
「天下に名を馳せた、初代にあやかりたい」と孝景を名乗った四代当主・孝景は、 幕府の命を受け近隣諸国の乱を静めるため近江・美濃・京都などへ相次いで出兵。 30数年間に渡って越前国主の地位を守るのと同時に、京都から一乗谷に公家、文 化人を迎え、華やかな文化を開花させていきました。
五代
義景
弱冠13歳で、当主になった義景。文武に優れ、奈良を離れた足利義秋(後の室町幕府第15代将軍・足利義昭)を迎え歓待する一方、京文化を積極的に取り入れ一乗谷は黄金時代を迎えました。
しかし、義昭上洛の後、織田信長と決裂(朝倉氏と織田氏はともに斯波氏の被官、後、守護代となり、それぞれ越前、尾張を押領)。近江・浅井長政と共に反信長の戦いを挑みましたが、刀禰坂の戦いで大敗。大野へ逃れますが、一族・朝倉景鏡の裏切りにあい自害。一乗谷は信長勢によって火を放たれ、天正元年(1573年)戦国大名朝倉氏は歴史から姿を消していきました。
朝倉氏五代の詳細解説(戦国大名越前朝倉氏)紹介の外部サイト


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