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福井市の基礎を開いた柴田勝家
 柴田勝家が主君織田信長から京・畿内の要衝の地、越前の統治を命じられたの は天正3年(1575年)。今日から420年余り前です。織田軍団は越前の一向一 揆を平定し、加賀の追討を終えて天下制覇へ向かって大きく動きだしていたころ です。
 勝家は越前支配には足羽川(あすわがわ)北岸のこの地が最適地であると判断し、 城郭を構築するとともに、その周辺に城下町を造営するという一大都市計画を推進 し、特に2年前に攻略した朝倉氏の居城であった一乗谷 (北ノ庄の東郊約10キロメートル) からも民家や寺院を移転させて街づくりを促した ことは有名です。
 後年、北ノ庄を攻めた秀吉は、小早川隆景に送った書状で、北ノ庄城は9層の天守 閣をもった城であったとその威容を伝えています。また、北ノ庄を訪れた宣教師 ルイス・フロイスは、町が安土の2倍もあることや、城が大変立派で大きな工事 をしている事などを記録に残しています。北ノ庄城とその城下町がいかに雄大な 規模を誇っていたかがわかります。
 この城郭と町は徳川政権下の松平藩17代、270年間に渡って受け継がれて全国 有数の城下町として発展。そのまま現在の福井市街地の中心部を形成するに至りました。北ノ庄城はまさに福井市創成の原点と言えます。
「舟橋」  勝家公は越前治世8年間に民生の安定・産業の振興にも積極的に取り組み、橋をかけ、新道路を開くなど交通体系の充実に努めました。
 特に北ノ庄城は、足羽川を天然の外濠として築城されており、合流する九頭龍川( くずりゅうがわ)も北辺の防衛ラインとして軍事上重要でした。 勝家はこの足羽川に南半分が石、北半分が木という半永久橋(現在の九十九橋=つくもばし) を架け城下町と橋南地区を直結させて町の発展を促しました。この奇橋の橋脚には城の屋根瓦と 同じく笏谷石(しゃくだにいし)が使われました。
九頭龍川は越前地方最大級の河川で、架橋の技術的な困難さもあって48席の舟 を連結して「舟橋」を造り北ノ庄と坂井郡の農村地帯や、三国湊、海岸地方との 連絡を強化しました。この「舟橋」によって新城下町で生産された商品と農産物 や海産物等との流通が活発になったと考えられます。
 また勝家は、農地を中心に検地を行って租税の基礎を定めましたが、新城下町 の特定地域には、商人に租税を免除して自由な活動を認めた「楽市楽座」を栄え させました。このほか「刀狩り」を断行して武器類を回収。一部は鋳なおして農 具や金具に再製させて農民らに与えましたが、舟橋で使った鉄の鎖もこれで作られたと伝えられています。
 これらは越前地方に始めて実施された総合的な地域開発事業であり、福井県史 上大きな意義を持つものとして伝えられています。

勝家とお市の方、そして3人の姫達の劇的な運命
天正10年(1582年)6月、突然の本能寺の変は信長第一の重臣としての柴 田勝家の運命を急転させ、織田軍団を掌握した宿命のライバル。秀吉との対立が 激化します。
勝家が主君信長の妹お市の方と再婚したのは、本能寺の変の後の天正10年の夏 頃。北ノ庄城主となって7年目。勝家61歳(説)お市の方36歳でした。その 年の秋、お市の方は浅井長政との遺児、茶々(16歳)。はつ(14歳)、江与 (12歳)の3人の姫を連れて岐阜から北ノ庄に入ります。
しかし信長死後、勝家と対立を深めていた秀吉によって北ノ庄は攻略され勝家、 お市夫妻は城と運命を共にしました。天正11年(1583年)4月24日。勝 家公62歳(57歳、58歳説も)、お市の方37歳でした。
お市の姫たち3人は、今度は秀吉に引き取られて大坂城の人となります。茶々は 秀吉の側室、淀君として権勢の頂点に。秀頼を生んで徳川勢との決戦に臨みます。 次女はつは、両陣営を取り持つ小浜城主、京極忠次に嫁し、そして三女江与は二 代将軍、徳川秀忠室となり三代将軍家光の生母にまで登りつめます。孫が天下人 の座につくとは生前のお市には想像もつかなかったでしょう。
お江与の方の姫たちの生涯も劇的です。長女千姫は従兄の秀頼に嫁いで大坂城入り。 次女子々姫は僅か3歳で加賀三代藩主となる前田利常に輿入れします。
そして運命というのか奇遇というのか、三女勝姫は越前二代藩主松平忠直室として, かって母や祖母お市の方が暮らした北ノ庄の人となります。更に末娘の和子姫は御 水尾天皇后として入内します。
お市の方とそのファミリーの政略結婚の図式はまさに華麗で劇的なものでありま した。


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